2011年5月19日木曜日

賢賢易色

7 子夏曰、賢賢易色、事父母、能竭其力、事君、能致其身、與朋友交、言而有信、雖曰未學、吾必謂之學矣。


子夏曰く、
賢賢易色、
父母に事えて、能く其力を竭(つ)くし
君に事えて、  能く其身を致(いた)し
朋友と交るに、言いて信有らば未だ學ずと曰うと雖も
吾は必ず之を学びたりと謂わん


賢賢易色が難読なのだ。

「賢を賢として色に易え(よ)」と読むのが漢の古注の解釈であり、
「賢を賢として色を易え(よ)」と読むのがそれに次ぐ六朝人の解釈だという。
「賢を賢として色を易(かろ)んぜよ」というのが宋代からの新注であるという。
吉川先生もどれが良いかは決めかねるが元来の儒者には色を避ける思想はないとして
古注に従って解釈を述べる。

全体を押さえて解釈の方向を見定める必要があるだろう。
第一行はどう考えてもそれに次ぐ諸行と異なっている。

わたしは欠落があるのかとも疑う。
さもなければ或いは当時の流行の文句からの引用かとも。

賢を賢として易色というのを耳で聞くとしよう。
「ケンケン易色」は”-n-n-k-k”という韻をもつから
詩歌の一部かことわざの一部ではないかと思う。
それを「賢賢易色」と「もじり」をしたのではないか。

易は「蜥蜴とかげ」でもある。蜥蜴を蜥と書けば「エキセキ」だが
これは易色「エキシキ」に近い。
ケンケンたるエキシキ云々という聞きなれた詩句か何かをもじって
賢を賢として色に易える…と言ったかと。
周囲の状況に合わせて自らを易える蜥蜴のように、という謎掛け風の表現。

色に易えて賢を賢とせよ。 色は女性を指すだろう。

賢を賢とすること色の易(ごと)くせよ。 という読みもある。

賢を色と易えよ。賢易色。

賢易色、では3語で落ち着きが悪いので

賢たれ、賢を色と易えよ。
2+2で、賢賢易色、としたとも考えられる。

父母に事えて、能く其力を竭(つ)くし
君に事えて、  能く其身を致(いた)し

同じパターンで対になる語句をならべるのは定型だ。
内容も常識的範囲を出ない。
朋友と交るに、言いて信有れ、もそうだ。

孔子が言ったことをくり返し言い方を変えただけとも言える。

未だ學ずと曰うと雖も
吾は必ず之を学びたりと言わん。


ここがここでの肝要であろう。



学ぶとは師につき書物について
学習するもの、という常識を覆す。
反語的に学ぶことの本質を反省させているのであろう。

弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁。行有餘力則以學文。

これは孔子の言とされている。
これの言いかえがこの章句だろうと思うのだ。
最後の行有餘力則以學文。は
行うことの中で十分に学び、余力があれば文言を学べという。
つまり学ぶ余力がなければそれでも修行はすることができると解釈できるのだから、
「学ばずといえども」はこれに該当するのだ。

全体の趣旨は一句目を除けばすっきりと破綻なくまとまっている。
やはり
賢賢易色は難解なのだ。
後続とどうも続かないように私は思う。

賢賢易色がいかにして「学びたりと謂う」条件になるというのか、諸説とも納得がいかない。
古典とはそういうところのあるものなのだ、とも思うほかあるまい。


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