2011年5月19日木曜日

汎愛衆而親仁

 6  子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁。行有餘力則以學文。

子曰、 子曰く、
                    ていし    すなわ
弟子入則孝、出則弟、    弟子 入れば則ち孝、出ずれば則ち弟あれ、
 
謹而信、汎愛衆而親仁。  謹みて信あれ、汎く衆を愛して仁に親しめ
                           
行有餘力則以學文。     行いて餘力有らば則ち以って文を學べ


弟子は「でし」でなく「ていし」と読み慣わす。
子弟も弟子ももともとは「家の子」といった語感だろうか。
修行中の若い人くらいの意味に解する。
大家族、地域共同体の若者組(若者宿)などを念頭に置いた
「弟子」「子弟」のイメージをもてばいいと思っている。


それがなぜ「弟子(でし)」になるのか?
「でし」は呉音、「ていし」は漢音からだ。
本来は分ける意味などない。

孔子「塾」の生徒としての弟子。
諸子百家といわれた時代には「塾」的なものが生じ、
擬似的な弟子集団が形成される。

それを従来の語法で「弟子」と呼び習わすが意味は変容する。

弟子というとき
従来の弟子と新しい「生徒的弟子」を取り違えないようにする。

日本では呉音と漢音があるのでそれを使って区別を立てたのだと思う。


ここは「孝悌は仁の本か」という有子の言葉と内容的に重なるところがある。


入ると出るだが、対になっているので「家の内と外」を言うと考えていいのだろう。
まだ家に従属して修行中の若者にとって入ると仕えるのは親、出て仕えるのは同族の
年齢が上の親族(大家族時代の広い意味の兄)なのだ。
それが「孝と弟」なのだ。

次は解釈がいくつかあるようだが、勤(つつしむ)と信(まこと)が大事だという。
自分に与えられた事柄(任務課題)をしっかり果たす、
言動を一致させて信を得ること。

汎愛衆而親仁がどう読むかだが、
汎はひろくと読むがこだわらず選ばずのニュアンスをもっているのではないか。

汎と愛と親が軸のひとつの言句。
汎愛、親愛という言葉を背景においてみれば、愛衆と親仁はどう見えるか。

わたしは衆も仁も結局は「ひと」を指すとおもう。
「仁は人なり」でいいのだと。

耳で聞いたら一緒ではないか。

汎愛人(仁)而親衆でもかまわないのではないか。

孔子はこだわりなくいろいろな人(衆)に接し人間というものに愛着し、
またひとりの人に親しむ(親は近く接するの意がある)ことで人格というものに触れる経験をもつこと、
それこそが勤勉信用とならんでたいせつだと言ったのではないだろうか。

仁という言葉の原型は案外こうしたところににじみ出ているのではないか。



そしてこのような「実学」的な修養を先に立てて余力あれば
文、つまり読み書き、文学をやれと。
文にはおそらく「礼」や「楽」もはいっている。

学問・学芸の基礎は人間だ。
ただそれを言うに過ぎない。
しかしそれを見失わないことが大事なことなのだ。



  

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