2010年12月16日木曜日

訪問者を待つ閑に読む論語


会社へ着いて来訪するはずの客を待ちながらなかなか来ないので論語を読む。
子曰好勇疾貧乱也人而不仁疾之已甚乱也。

子曰。
好勇疾貧乱也。
人而不仁疾之已甚乱也。

ここから通例の読み方では

子曰く。
勇を好んで貧しきを疾(にく)むは、乱なり。
人にして不仁なる、之を疾むこと已甚(二字で。はなは)だしきは、乱なり。

と読むらしい。
武勇を好んで貧乏を嫌えば乱暴するようになる。
人が道に外れていると言ってそれを嫌うことが過ぎると、却って乱暴するものだ。
という解釈になっている。

これはしかし後知恵の読みのように思う。
乱を反乱や謀反という意味に取らないのがむしろ訝しい。
道学者風の分かったような解釈だが中身がない。


これは
反乱に至る事情を孔子がどう理解するかを述べたものだろう。

二文がどちらも「乱也」で終わっていることを重視して読むことが重要だろう。
「だから」を言外に読み取って、「(だからそれが)乱というものだ」
と二つの同形の末尾でそろえたのだ。

勇敢であることを好む(好しとする)、貧しいことを疾(にく)む、それが乱となるのだ。
人にして(一人前の大人になっていて)然も不仁である
(人間らしい啓発をうけない環境にいる)、之(貧)を疾むこと甚だしい、それが乱となるのだ。

子曰。
好勇、疾貧、乱也。
人而不仁、疾之已甚、乱也。

勇には蛮勇と義侠とがある。
貧を疾(にく)むのは、弱者の正義、貧者の義侠であろう。
孔子にとって乱は乱であり容認することはないであろう。
しかし、乱を鎮めるだけではいけないこと、
それは本当の解決ではないことは孔子には分かったのである。

武勇に訴えることを辞さない気概と
貧を我慢できないこころ
それが乱の正体だ、と言ったのである。


人。つまり児童ではない一人前の人間。
その人間が仁によって人にふさわしい扱いを受けていないこと。
そういう人が貧を憎むことが募っている。
それが乱というものの正体だよ。


ぼくはこう読めてしまう。
古代版の
「造反有理」(謀反には理由があるという文革時に紅衛兵が掲げたスローガン)の言葉。

孔子を中間的で保守的で体制墨守主義者とみなすのは
先入見でしかない。行動経過や事実は孔子はもっと多面的だし
複雑なことを語っているが、この上の文はその例証になるものと思う。


乱には理由があるのだから勃発後の鎮圧より
事前の予防策、善き政治が大事だというのである。
孔子は革命家ではないが改良家ではあった。

人を皆「人而仁」とする政治。
まともな環境に置かれたら人は乱になど走らないだろうという考え。
自らも貧しい生活者として青年期を過ごした孔子には
このような温かい目が備わっていたと言えよう。

従来の読みは
疾之已甚を乱に対処する側の態度として解し、
その立場にある人に
不仁の人を「已甚」だしく疾むと乱を起こすから
憎みすぎるなと言ったという忠告のような解釈である。

しかし
先に疾貧とあり次に疾之と続けば
まず之を貧と受け取って解釈するのが順当であろう。
そうしなかったのは先入観の孔子像を基準に読もうとするからである。
反乱者にも理由があるというような理解は後代の儒者には理解できないのであった。

こんなことをあれやこれやと辞書などをめくりつつ思案していた。

短い時間だったが限られた時間だという意識が頭を活性化させたのか、
何時もより血の巡りが良かったような気がする。
今入力していてもそんな気がする。

「そら成りたたんで」と笑殺されそうな予感でいっぱいだが(笑)



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