有子曰其為人也孝悌而好犯上者鮮矣不好犯上而好作乱者未之有也君子務本本立而道生孝悌也者其為仁之本与。
有子曰、
其為人也孝悌而好犯上者鮮矣。
不好犯上而好作乱者未之有也。
君子務本、本立而道生。
孝悌也者、其為仁之本与。
有子曰く、
其の人となりや孝悌にして、上を
犯すこと
好む
者は、鮮し。
上を
犯すこと
好まずして、
乱を
作すこと
好む
者、未だ之れ有らざる也。
君子
本を
務む、本立ちて道生ず。
孝悌は、其れ仁の本
か
。
これは孔子の言葉ではない。
有若という弟子の言だ。
有子が曰われた。
「人間が孝にして悌であるのに上下の序列を無視したがる者は少ないよね。そういう序列を無視する態度を好しとしないのに乱をおこしたがる者は滅多にない。為政者は政治の根本のところに力を注げば良いわけだ。基本が出来上がれば物事が秩序だった流れになるのだ。人間に孝と悌があるのだから人間らしい秩序の本は備わっているのではないかね」と。
私は仁という表現、語を柔軟に理解したい。
仁を道徳、仁者を道徳を身に着けた人、有徳者とのみ訳していたら旨くないと思う。
仁は属性とも関係性とも理解できるからだ。
関係性という面でみれば仁は人間関係の状況とそれをよしとする行動規範として現れてくるだろう。
この有子の言の「仁の本」にもそういう対象性を読めるように思う。
人而不仁という言葉の受け止め方が気になっている。
普通は「ちゃんとした身分の一人前の大人なのに仁が欠けた人情のない奴」
というような理解のようだが、
これを「ちゃんとした身分の一人前の大人なのにちゃんとした人らしい扱いを受けていない状況にいるひと」
とも読めるように思う。
ここで有子が言っていることは儒教の基本になるようなことがらとされている。
孝と悌は同族内の秩序であり、父母への奉仕と思慕、年上の親族への服従などだが、その心情とルールをもって君臣と社会生活のルールや道徳へ拡張するのが儒教的なモラルなのだろう。
其の為人、孝悌也⇒好犯上者、鮮し。
不好犯上者⇒好作乱者、未有らず。
三段論法ではない。
この論法は孝悌なる者の大半は不好犯上者であり、不好犯上者のほとんど全てが不好作乱者である。
孝悌なる者のひとにぎりが好犯上者であり、好作乱者でもあるだろう、というのだ。
この論理のミソは家族関係の心情や倫理をもとに君臣上下の社会関係に於ける秩序維持への期待を述べていることにある。
君子の努めるところは本に向けられているべきで、そうすれば本が立って(確立して)道ができる(生ず)と述べる。
孝悌が本で仁が道でしょうと続ける。
君子が仁を実行しようとすれば孝悌を大事にし、大事にさせるべきだと言う。
つまり君子は道としての仁のために孝悌に本を置くべしと。
仁とは人間の道、人間の秩序原理であり、
その内面性は家族的心情から起こる慈愛にあるということか。
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