(1)涼州詩 王之渙
黄 河 遠 上 白 雲 間
一 片 孤 城 万 仞 山
羌 笛 何 須 怨 楊 柳
春 光 不 度 玉 門 関
こうが とおくのぼ はくうん かん
黄河 遠く上る 白雲の間
いっぺん こじょう ばんじん やま
一片の孤城 万仞の山
きょうてき なん もち ようりゅう うら
羌笛 何ぞ須いん 楊柳を怨むを
しゅんこう わた ぎょくもんかん
春光 度らず 玉門関
(2)山行 杜牧
遠 上 寒 山 石 径 斜
白 雲 生 処 有 人 家
停 車 坐 愛 楓 林 晩
霜 葉 紅 於 二 月 花
とお かんざん のぼ せっけい なな
遠く 寒山に上れば 石径 斜めなり
はくうん しょう ところ じんか あ
白雲 生ずる処に 人家有り
くるま とど すずろ あい ふうりん くれ
車を 停めて 坐ろに愛す 楓林の晩
そうよう にがつ はな くれない
霜葉は 二月の花よりも 紅なり
全唐詩に「遠上」の二字を使った詩は
上記二首だけのように思う。
これは普通に「遠く上る」と読むのだと解されるが、
上を「のぼる」と動詞と解すると
「遠く」「遠きに」などと読むことになるはずだ。
王之渙の涼州詩の場合は
黄 河 遠 上 白 雲 間
一 片 孤 城 万 仞 山
の二聯がひとつであり
普通これを
黄河を遠く万仞の山と
一片の孤城のある
白雲の(漂う)間(あたり)へ上る
と理解している。
ここで「遠上」を軸に考えると
遠上 黄河 なのか
遠上 白雲(間) なのか
遠上 (万仞)山 なのか。
そもそも
「遠上」が二首にしか使われていない理由は
平仄上の理由以外にあるとすれば
より適切な表現があればそちらを採ったからだ
ということではないか。
この二首が「遠上」を採っていることは、だから
その場合はちゃんと理由があるはずだという
推理を呼び起こす。
これは
上○○。 だから 遠+上○○。と 遠上○○が出てくるのである。
これが
登山。のような例だと、 遠登山。は 無いだろう。
攀。ならば 攀上など連語になるだろう。 遠攀は無い。
上という語の意味が遠という修飾を呼ぶ。
0 件のコメント:
コメントを投稿