2012年1月9日月曜日
信近於義言可復也
13 有子曰信近於義言可復也恭近於禮遠恥辱也因不失其親亦可宗也
有子曰。
信近於義言可復也。
恭近於禮遠恥辱也。
因不失其親亦可宗也。
「也」を終端記号とみなして、
「有若先生が曰うに」以下を
3つの部分に分ける。
初めの二句は、則を入れて読めば
信近於義 則 言可復 信の義に近ければ 則ち 言可復
恭近於禮 則 遠恥辱 恭の禮に近ければ 則ち 遠恥辱
リズムでみると
信近於義(則)言可復也と一拍の息を入れて4字と発語(則)と4字で一句、
4+4(3+1と3+1)の口語リズムが感じられる。
一句を叙述的に解するか対話的に解するかで
理解の仕方が分かれるようだ。
第三句の因を上句を受けての発語とみれば
不失其親 亦可宗也 も4+4(1+3と1+3)のリズムをもつ。
因の字を無視すれば
普通はどう読めるかと言うと
其の親を失わざれば(すなわち)亦た可宗也
信と義、恭と礼についての発話を受けて
其親とあるのは「親、親族」のことではないだろう。
因を姻戚の因とする解釈もあるらしいが、
この三句が儒学の体系においても難解だということを表している。
有子曰く。
信の義に近づけば 言いて復(ふ)むこと可なり。
恭の禮に近づけば 恥辱を遠ざくるなり。
因りて
其の親しむところを失わざれば 宗たるも可なり。
こんな読み方が許されるかどうか、心もとない限りだが、
儒教径学的な解釈において安定しないこういう章句は
自由に読んでみる想像力の赴くのは自然の発露だろう。
全体が人間の関係における義と礼に関しての発言だということ。
だから第三句も人間関係と解するのは妥当なことだ。
信つまり言葉での約束を守るだけではまだ駄目だ。
不道徳な約束だってあるからだ。
自分のする約束がみな社会的道義において正しいか。
正しい約束をして実行していればそれ以外はできにくくなる。
言行一致とはそういうことだ。
罰せられるから守れない約束をするのではない。
守りたいような約束をしなさい。
恭しくするのは礼に適っているように思うだろうが
それは違う。ただの恭順は中味がなければ
ただの奴隷根性だ。
礼が何のためにあるか、
何故に皆がそれに順うのかを学ぶのだ。
礼は個々人を越えた人間の尊厳を表す形ではないか。
だから礼を学んだ上での恭しさは人の侮りを受けない。
恥辱を遠ざかけるとはそういうこと。
恥辱に遠ざかる、というのも結局は同じこと。
行為と結果のどちらで見るかだ。
こうして(因りて)
其の親しむところ(礼・義をもって信と恭を行う)を
忘れることがないならば、
小共同体である親族のなかで調和の中心に居て
一族の宗長として社稷を継ぐこともできるだろう。
わたしにはこんな読み方が良いような気がするが
どうだろうか。
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