2011年12月3日土曜日

君子 食無求飽 居無求安

14 子曰君子食無求飽居無求安敏於事而愼於言就有道而正焉可謂好學也已。

子曰、
君子食無求飽居無求安、
敏於事而愼於言、
就有道而正焉、
可謂好學也已。

子曰
 「君子
   食 無求 飽

   居 無求 安

   (於
       而 (於

   (有道)
       而  (焉)

  可謂好學也已。」

子曰く、

 君子は
   食するに飽くことを求めず
   居するに安きを求めず
   事に敏にして言を慎み
   有道に就きて正す、
 学を好むと謂うべきのみ。


ここでも綺麗なパターンが見て取れる。

・ 動詞 +無求 +状態  食事と居住についての要求形式: 「~するならば~であれ」


・ 状態 +而 +動詞    「~であること、而して ~せよ」



わたしは「学を好むと謂うべきのみ」という文は
追加されたか、攙入したものと考えられないかと疑問を持っている。


この節も学習集団の口承定型の文字化(文章化)であろうと思う。
無求の二句のリフレーンもそうだが


敏於事而愼於言
就有道而正焉

の二句も二重のリフレーンと見る。
敏而慎 就而正 というリフレーンに
敏於事 慎於言 という 事と言の対比を折り込んだ形だ。

このリフレーンでできた定型の教訓に
それを実行している人物を「好学と謂う」として評価する言表を加えたのだろうと想像する。

色々な解釈があるが
割と単純に解釈したらどうかと思っている。


食事とか住居とかに拘泥しない意識状態を善しとするのは
欲望の否定ではなく、求めているものが何かの違いだろう。

事を政治とかに限定せず
「万事」に、「庶事」に、通じて、対処がすぐにとれる(敏)
言葉使いやその言動の後先を考慮して、不用意な発言はしない(慎)

これらは普通の児童教育、子弟教訓であって、特別とは言えまい。
敢えて孔子の言としなくてもよいようなものだ。

有道に就いて正すというのは

「就く」と「正す」のワンセットの言い方になっているが
有道(行いの良いそれなりの人物)に就きなさい。
その手本によって自らを正しなさい。ということだ。



全体が要請、要求という形の発語になっているのではないか。
そこに「口承定型の教訓集」の残影を感じるのだ。

集団で教訓を暗誦し後で解説や質問とか討論が来る形式の塾生活。
原「儒教」集団のおぼろな姿を。

ここで唱えられているような教訓の実行。

それができていたら…本を読み塾で学ぶということがなかっても
そういう学び方もありうる、と
孔子は言ったのだろうか。

それとも先行する有子の言葉をうけて編集時に挿入されたのだろうか。


対話形式でないこのような節は
解釈が難しい。あま拘るのも良くないだろう。
読み進めて分かってくることも多い筈だ。


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君子たるものは
食するにも飽くことを求めないもの
居るところの居安さを求めないもの
何でもできて 言葉ただしく
先輩の行いをみて己を正しうす

先生が謂われた
そうだのう、日々そのようであれば
学ぶことが好きだと言ってもいいだろうね。




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