2011年11月1日火曜日

子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如。

15
子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如。子曰、可也、未若貧而樂富而好禮者也。
子貢曰、詩云、如切如磋如琢如磨、其斯之謂與。子曰、賜也始可與言詩已矣、告諸往而知來者。


子貢曰く、貧にして諂(へつ)らうこと無く、富みて驕(おご)ること無きは、何如(いかん)と。子曰く、可也、未だ貧にして樂しみ、富みて禮を好む者には(しか)ざる也。子貢曰く、詩に云う、切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如しとは、其(そ)れ斯(こ)れ之(これ)を謂う與(か)と。
子曰く、賜や、始めて与(とも)に詩を言う可きのみ、諸(こ)れに(おう)を告げて來(らい)を知れる者なり。


子貢が訊いた、「貧乏だが卑屈に陥らず富むようになっても人に驕慢にならない人物はどうでしょうね、先生」
孔子は応えた、「可(い)いだろう」…「だが…貧しいときにも楽しむことができ富んでからも礼を大事にする者には及ばないだろうな」


子貢がそれを受けて言った、
「詩経の中の詩に、如切如磋如琢如磨とありますが… 磨きに磨き丹精を込めて上を目指すってことですね…

孔子は顔をほころばせて言った、

賜や、共に詩を語れるのは、ほんとにお前とだねぇ、こうといったらおうと応えてくれるってお前のことだよ


前段と後段とに分かれているがひとつの場面での連続した対話とされている。
ほんとうにそうかは分からないが、その方がいきいきとした情景になるのは確かだ。
子貢は欠点の少ない男あるいは欠点を見せないない男ではなかろうか。彼の成功の秘密みたいなものがここに滲んでいる気配がある。


何故にわざわざ自分に似た人物を描いて孔子に褒められようとするのか。
孔子は受けてそしてそっと押し返している様子だ。


それだっていいよ、悪くはないさ、でもな…人に対してどうだこうだということだけかな。
貧にして諂うことがないことの本当の姿は貧にいても学問をし成長を続ける楽しみを失わないということじゃないか。また富んで驕らないというのは礼という教養の現れで単なる態度ではないだろう。そう教えたのではないか。


分かったのかどうか、「言語に秀でた」という子貢はすかさず応じて孔子を思わずにっこりさせる。
そうか、富みて礼を好むとは切磋琢磨ということですな、と。
(いや切磋琢磨という言葉はここから生まれたのではあるけれど)
詩は読み方でその輝きが変わる、読む人の知力や感性の豊かさに応じていろいろに読める。


子貢はその瞬間たしかに新しい読みを光らせて見せたのだ。
子貢の自己完成をめざす向上心のそれは表明であった。
孔子はそれを喜んだのだ。


こんな風にもおもしろく読めてしまう。それが論語なのだと思う。
それが素人の誤読かもしれないとしても、
対話のもつ旋回する力がそうさせるのだと思う。
やはり論語は世に希な対話編のひとつだ。



貧而樂を貧而樂道に作っている写本もあるらしい。
確かに「道を楽しむ」と「礼を好む」は対になって美しくはある。
だが美しすぎるとも感じる。
楽という字義にすこし別の風合いを感じたい気もする。
貧しいときには楽しむのは至難でも富めばそれは易しい。
貧しいとき人間を支える力は金でも食物でもない、むしろ価値観=礼=文化だ。
というのは強引だろうか。


富んで礼を好むというのは並のことではないのだと思うのだ。
学問を好むこと色を好むごとくする者を知らないと孔子は言った。
富んで楽しみではなく礼を好むというのは余程のひとだ。
また貧者は怨み果ては乱するという一般的認識にたいして、
貧にして楽しむというのも尋常ではない。
孔子は尋常ではない者を称揚したと読んでもいいのではないか。
140 子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者。
子曰く、知るは好むに如かず、好むは楽しむに如かず
こう読むと少し違った情景が見えそうな気がする。





0 件のコメント:

コメントを投稿