76 子曰、君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比。(里仁第四)
子曰く。
君子の天下に於けるや
適(あつく)すること無く
莫(うすく)すること無く
義は之れ與(とも)に比(した)しむ
天下という言葉は論語中に使われている回数は十回に及ばないが少ないとは言えない。
むしろ多いと言うべきだ。
仁という言葉ほど多くは無いが多いほうだろう。
しかし、仁とか政とかに比べてその使われ方は違っている気がする。
個々の国の政治状態とは区別して広く「統治されるべき世界」とか
「人間の住む世界」「世間」といった意味合いだろうか。
ここでも
「天下に於けるや」というのは「どこへいっても、どこにあっても」
という感じでとっていい意味と思う。
何処の国のどんな政治状況に際会しても(変わらずに…)君子は、という謂いだと思う。
適莫は多くの説があるが、最後の「義是與比」の解釈はそう大きくずれないから
それをアンカーにして考えるべしと思う。
君子は義が基準だということだから、大意は中間を除いて
「君子は天下においてもいつも義に従う」「君子はどこでもいつでも義に基づいて行う」
ということだろう。
義は「天下」と関わるもので諸侯の国を超越するという視点を感じる。
古義の解釈に適莫は厚薄だという注があり(論語義疏)それをとることにしてみる。
他人との関係、政治において、厚薄とは己の利害や感情に基づく主観的基準だ。
義はそれに対して、客観的、公的、普遍的な倫理に従ったものとして対比される。
比を「従う」「親しむ」の意味に解釈するのが主な解釈のようだ。
宮崎定一氏の解説が簡明だと思う。
『無適以下は何かの古語の引用であろうという。「無〇無◇」という形は古来例が多い。
孔子が口語の語調で也を入れただろうという。
この場合は無〇無◇は相反する語が入ることに注意するべきだと。
こうして適莫も好悪の意に解する。
比は朋比というときの比で味方して親しむの意。』
比には「並」ぶという意味がありそこから「親しむ」と「比べる」という
二方向の意義が派生したのだ。
宮崎先生の訓み下しは
「君子の天下におけるや、適なきなり、莫なきなり、義をこれ与に比す」
と読んでいる。
天下において(広い世界で)いつも義に立った行いをしてくれたまえ、という趣旨は同じだ。
比を親しむと読むとしてもその含みは「対比の一方の側にたつ」とすれば
ここで言われていることが一層はっきりするように思う。
適莫のある主観的言動ではなく義という普遍的思惟のほうにこそ比(なら)べ。
0 件のコメント:
コメントを投稿