4 曾子曰、吾日三省吾身、
爲人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎、傳不習乎。
曾子曰ク、
「吾、日ニ三(みたび)吾身ヲ省ル。
人ノ爲ニ謀リテ忠ナラザル乎。朋友ト交リテ信ナラザル乎。傳不習乎。」
わたしは一日に三度自分の言動を省みるのです。
人のために仲立ちをして忠実に役に立てたか。
友人との語らいで偽りを言わなかったろうか。
……
曾子が自分を実例にして修身の心がけを示している言葉だと解される。
しかし「傳不習乎」は訳がいくつかに分かれている様子だ。
➀ 習わざるを伝えしか?
➁ 伝を習わざるか?
普通は➀だろう。
よく飲み込むまで理解していないことを教えていないだろうか?
という意味にとる。
伝不習乎は伝習という文から接近できる。
<伝え習う。> 伝習。
あるいは
<伝を習う。> 伝習。
こういう形もありうる。口語ではあるが。
(A) 伝不、習不、乎。 <伝へしか、習ひしか。>
伝不伝、習不習、乎。の省略の形。
また
(B) 伝・習 ⇒ 伝・不習+乎 習わざるを伝へしか。
伝・習 ⇒ 伝不・習+乎 習ひしを伝へざるか。
Aは一文で二重の問いになるので不自然でありそうもない。
Bはどちらも誠実な教授への自問としては可能だろうが、
習得したことを伝えない(その力もない)というのは自問としては不自然。
やはり普通に不習を伝えて任を果たせていないのではないかという問いだろう。
伝ヲ習ハザルカ。
これもありうる自問だろう。
口語だという面からは、
伝。不習乎。 というのは
「さて、伝だ。 日課を済ませているか?」
という風な自問自答であるだろう。
自己をチェック項目で点検すると読めば、現代に引き付けてしまう事になるがそれも許容されるだろう。
真摯に自己に向き合い前進と発展の資とするのは昔からのことなのだから。
伊藤仁斎が『論語古義』で、ここでは全て他者を意識においたうえで述べられた反省の言葉であると指摘していることを吉川幸次郎氏がひきとって学問修養は「ひきこもって」自分指向でするものではないと言っているのに注目した。
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