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2011年5月18日水曜日

一日三省

 4  曾子曰、吾日三省吾身、爲人謀而不忠乎、與朋友交而不信乎、傳不習乎。

曾子曰ク、
「吾、日ニ三(みたび)吾身ヲ省ル。人ノ爲ニ謀リテ忠ナラザル乎。朋友ト交リテ信ナラザル乎。傳不習乎。」

わたしは一日に三度自分の言動を省みるのです。
人のために仲立ちをして忠実に役に立てたか。
友人との語らいで偽りを言わなかったろうか。
傳不習乎。
……


曾子が自分を実例にして修身の心がけを示している言葉だと解される。

しかし「傳不習乎」は訳がいくつかに分かれている様子だ。

➀ 習わざるを伝えしか?
➁ 伝を習わざるか?    

普通は➀だろう。
よく飲み込むまで理解していないことを教えていないだろうか?
という意味にとる。


伝不習乎は伝習という文から接近できる。

 <伝え習う。> 伝習。

あるいは

 <伝を習う。> 伝習。

こういう形もありうる。口語ではあるが。

(A)    伝不、習不、乎。 <伝へしか、習ひしか。>
                 伝不伝、習不習、乎。の省略の形。

また
(B)    伝・習 ⇒ 伝・不習+乎 習わざるを伝へしか。 
       伝・習 ⇒ 伝不・習+乎 習ひしを伝へざるか。

Aは一文で二重の問いになるので不自然でありそうもない。

Bはどちらも誠実な教授への自問としては可能だろうが、
習得したことを伝えない(その力もない)というのは自問としては不自然。

やはり普通に不習を伝えて任を果たせていないのではないかという問いだろう。

伝ヲ習ハザルカ。 
これもありうる自問だろう。
口語だという面からは、

 伝。不習乎。 というのは

 「さて、伝だ。 日課を済ませているか?」

 という風な自問自答であるだろう。

自己をチェック項目で点検すると読めば、現代に引き付けてしまう事になるがそれも許容されるだろう。
真摯に自己に向き合い前進と発展の資とするのは昔からのことなのだから。

古代の漢語では
吾という語は主格と属格に使われ対格には我という語が入るという。
ここでも吾日三省吾身の吾省、吾身はそれぞれ主格と属格で当てはまっている。
論語全体でもそうなのか?

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2010年11月30日火曜日

學而時習之不亦説乎

 子曰。
 學而時習之、不亦説乎。
 有朋自遠方来、不亦楽乎。
 人不知而不慍、不亦君子乎。

 授業で習ったりして
 誰でも聞いたり見たりした記憶がある
 論語の冒頭に置かれた言葉。

 これ、漢文としては、
 もともとダラーっと繋がって書かれるものだった。

子曰學而時習之不亦説乎有朋自遠方来不亦楽乎人不知而不慍不亦君子乎

 これが漢文を読むという「技(わざ)」の前に
 立ちはだかる
 原初の姿と言ってよい。
 まず、観察しよう。

 という字が2回出てくる。
 不亦という二字が3回。の字も3回。
 子曰で「先生が言われた」という意味なのは明らかだから、

 子曰。
 學而時習之不亦説乎有朋自遠方来不亦楽乎人不知而不慍不亦君子乎 と二分できる。

 さらに、で終わるとみなせるので
 子曰。
 學而時習之不亦説
 有朋自遠方来不亦楽
 人不知而不慍不亦君子 

 と全体を4つに区分する。

 さらに不亦が区切りになっているので、
 例えば

 學而時習之、不亦説乎。 か、

 學而時習之不亦、説乎。 か、

 どちらかに区切られる。

 不亦○乎不亦○○乎と 
 不○の形の比較から

 不亦○不○の拡張形、

 不亦○乎は、それのさらに拡張されたもの
 と考えられる。

 この観察から

 子曰。
 學而時習之、不亦。     
 有朋自遠方来、不亦。    
 人不知而不慍、不亦君子。 

 而、之、と亦は後回しにすると

 學時習、不説乎。
 有朋自遠方来、不楽乎。 
 人不知而不慍、不君子乎。 

 端的に理解する立場でみれば、

 學・習、不説・乎
 有朋来、不楽・乎
 不知・不慍、不君子・乎

 という縮約が可能だろう。

 学び、習う。悦ばしいじゃないか。
 朋有り。(朋が現れた。有来。)楽しいじゃないか。
 人に知られないからといっても慍からないでいる。君子じゃないかい?

 本質的には骨格は以上ではないだろうか。

 *

 有朋自遠方来、は

 ……………。    来る有り。 来は「了」で実現を示すと解しうる。
               来た、見えた、ということ。
 有朋…………。    朋が姿を見せてくれた。
 有朋………方来。   方(いま、まさに)朋が姿を見せてくれた。
 有朋自遠方来。   方(いま、意外にも)朋が遠くから見えられたよ。

 だから<不亦楽乎> 「楽しい」のは当然だよね。

 わたしは
 このように読んだらどうだろう
 と思うのだが、
 どうなのだろう。
 語法的に無理な話なんだろうか?

 *


 子曰。
 學而時習之、不亦説乎。
 有朋自遠方来、不亦楽乎。
 人不知而不慍、不亦君子乎。

 子曰く。
 学んで時に之を習う、亦説ばしからずや。
 朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。
 人知らず、而して慍らず、亦君子ならずや。

 上記が標準的な訓読のスタイルに適っているいるのだろう。

 貝塚先生風にすれば
有朋自遠方来、不亦楽乎が
 
 朋遠きより方(まさ)に来るあり、亦楽しからずや。 と読むことになろう。

 
慍らず
の部分は、怒らず、怨みず、憤らずなどと読む。新注が怒らずと読むらしい。

 三つの文を修養についての独立した所感、諭語とみるか
 一体の同時に言われた言葉とみるか。
 それで解釈が変わってくる。
 
 学習 → 朋来 → 君子不慍という流れとそれを三段論法的に
 学習によって朋を得られ、学習と朋を得たことで人の評価に捉われない君子となれると一体のものに解することも可能か。
 その場合でも最後の君子ならずやの文はあまり相関的ではない気がする。
 
 学習は悦、朋来るは楽。 君子は不慍。
 この三つの関係は何か。
 悦・楽・慍、どれも態度と感情を表している。
 思うに不慍というのも否定形での表現を肯定形に表現すれば
 自己に安住できる心を表す言葉になろう。 
 だから三つの文は肯定的感情の存在を指示していると解釈できる。
 
 これはきっと学問の三徳といった類のもので
 学習へのチチェローネなのである。

 論語の冒頭に置かれるにふさわしいと言われる所以だろう。

 この時代はまだ木簡などの時代で
 書物は大部の巻物だった。
 学ぶというのはノートをとって学ぶのではなく、
 先生の読む本を
 繰り返し誦え憶えることだったし、
 内容は礼を中心にした実際的なものだった。
 それは実地演習的な「習う」行事で身に着けるものであった。

 それまで習ったことが身についているか
 実地にやってみるから
 できたときの感激と喜悦は大きかった。

 これに対して
 思いがけず同学の士が訪ねて来るというのは楽しい
 というのだが
 楽という言葉にあるニュアンスを汲み取るべきか?

 苦楽と対比される苦と楽。
 楽には安らぐの意味がある。

 遠慮のない分かり合える者との歓談の時間。
 自由な心の交流がもたらす楽なのだ。

 慍字はこもるという意味で、こころにこもった感情をいう。鬱積した不満。
 不慍とは鬱積がないことだ。いからずとか、うらみずとか、動詞に読むが
 自足している、評価を気にしていない、などの状態をいうと解するのが良いのではないか。

 人に評価されていなくても気にせずに居る、位のところだろうか。
 
 最後に
 學而時習之、不亦説乎。
 有朋自遠方来、不亦楽乎。
 人不知而不慍、不亦君子乎。
 という三つの文がリズムよくできていることを
 重んじた読みと解釈を大事にしたいと思う。

 學而 時・習之、    不亦 説乎。
 有朋 自遠 方来、   不亦 楽乎。
 人・不知 而・不慍   不亦 君子・乎。

 2 3(1+2)        2 2
 2 4(2+2)        2 2
 3(1+2) 3(1+2)    2 3(2+1)

 學而 時習之、 不亦 説乎。
 有朋 自遠方来、 不亦 楽乎。
 人不知 而不慍、不亦 君子乎。

 これは文法的な切れ目ではなく
 言語の話者のリズムを留めている。
 少なくともそれを意識して書き下されている文であろう。
 話者(孔仲尼)の息遣いがここにある。




 
 

 
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